秋山真之名言は「天気晴朗ナレドモ波高シ」
前列右端:秋山真之 中央:東郷平八郎
秋山真之名言と言えば「天気晴朗ナレドモ波高シ」が有名です。
作戦担当参謀として参加した日露戦争では、連合艦隊司令長官・東郷平八郎のもと「丁字戦法」を立案。
「天気晴朗ナレドモ波高シ」は、バルチック艦隊が対馬に現れた時に、大本営に打った電報の中の、日本海海戦を報告するための一文です。
「天気晴朗ナレドモ波高シ」の意味はかなり深いです。
黄海の海戦で、一度日本はソ連の旅順艦隊をすべて鎮めることができずに、霧に紛れて逃げられています。
「その時の反省を踏まえ、今日は天気が良く霧もない、今度は逃がさない。さらに波が高く、日本は散々砲撃の訓練を繰り返してきた。それに引き換えソ連は砲撃が下手な上に、波で上下し、ますます当たらないだろう。東郷艦隊はバルチック艦隊に勝つ。」
みたいな意味が込められています。(司馬遼太郎さんの坂の上の雲から)
やっぱり、秋山さんかっこいい。
完全ミーハーです。
松山の秋山兄弟の生誕地に行ってきました。
秋山真之名言
「人の頭に上下などはない。要点をつかむという能力と、不要不急のものはきりすてるという大胆さだけが問題だ」
「流血のもっともすくない作戦こそ最良の作戦である」
秋山真之
幼名は淳五郎(じゅんごろう)。 海軍中将。作戦担当参謀として参加した日露戦争では、連合艦隊司令長官・東郷平八郎のもと「丁字戦法」を立案。 当時最強といわれていたロシア・バルチック艦隊を日本海海戦で撃破する歴史的勝利を導いた。 日露戦争での活躍により、日本海海軍では伝説的名参謀として東郷平八郎とともに神格化された。 実兄は「日本騎兵の父」といわれた陸軍大将の秋山好古。 秋山真之の戦略・戦術立案能力は当時より高く評価されており、軍神といわれた東郷平八郎をして「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)と言わしめた。 日露戦争の日本海海戦にのぞむにあたり、秋山真之はあらゆる状況を想定して「七段構えの戦法」を立案した。 ちなみに七段構えはすべて実行されてはいない。 第一弾の夜間攻撃は悪天候で中止、第五〜七段は使わずに勝利を収めた。 |
秋山兄弟 生家
秋山兄弟の生家跡に行ってきました。
秋山真之は俳句の正岡子規の親友です。
そして、夏目漱石とも同級生ですが顔見知り程度であり、子規が夏目を紹介するといっても、さらりとかわしています。
秋山真之も、本当は文学の道に進みたかったのですが、家庭の経済事情で当時の職業軍人になりました。
お母さんは、末っ子の秋山真之を幼名の「淳五郎」から「淳や、淳や、」と呼び、かわいがっていたそうです。
お兄さんの秋山好古は、ハーフと間違えられるほどのイケメン。
どんなお母さんだったんでしょうね。(ミーハーですみません)
日清日露戦争
私は歴史が苦手です。
日清日露戦争の話も、司馬遼太郎先生の本から教わりました。
学校の歴史の授業では、詳しい話はなかったし・・・
日清日露戦争をわかりやすく解説してくれている文章を見つけたので転記します。
非常にわかりやすいです。
歴史が苦手な人でも大丈夫です。(私だ…)
1895年、日清戦争が終わる。
日本は清に勝利して、日本の全権・伊藤博文首相と陸奥宗光外相は下関条約の結果、清の遼東半島、台湾、そして多額の賠償金を得た。
しかし、その3日後に横やりが入る。
ロシア、フランス、ドイツの三国が、遼東半島を清に返せと言ってきた。三国干渉。
それぞれの思惑は、ロシア・・・遼東半島は俺がほしい。
ドイツとフランス・・・ロシアが東の遼東半島や清に目を向けてくれれば、ヨーロッパ方面の我々はロシアの矛先から逃れられる。
つまりロシアが、日本が中国大陸に足場を持つことを嫌ったわけですね。
日本は仕方なく遼東半島を清に返還した。
しかし、それはその直後ロシアによって租借されたのである。租借とは事実上植民地にすることで、日本は遼東半島をロシアに横取りされた形になった。
こうして日本の前にはロシアという強敵が立ちふさがり、日本は「臥薪嘗胆」をスローガンに軍民が一体となって国力の充実に励み、いつかみておれと踏ん張ったのだった。
「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)とは、復讐を成功するために苦労に耐えるという意味を持つ 、中国の故事成語である。」
10年後。
1894年、国力に自信ができ、
さらに1902年に世界一の強国・イギリスと日英同盟を結んだ日本は、宣戦布告と同時にロシアに攻撃を開始した。
当時ロシアの主戦力はその植民地の遼東の旅順にあった。
旅順港は日本の東郷平八郎率いる連合艦隊が包囲し、陸からも児玉源太郎大将の軍勢が包囲。
しかし、旅順要塞はなかなかおちず、また気負いこんだ乃木希典の肉弾戦法によって10万人の将士が犠牲になったと伝わる。
海軍は旅順港の入り口に船を沈めて艦隊を閉じ込める旅順港閉塞作戦を行う。(秋山真之の立案)
しかし、結果的には広瀬中佐を失って失敗に終わった。
その後、ロシアの旅順艦隊の司令長官・マカロフは湾から出撃してきたが日本軍のしかけた機雷で轟沈して戦死。
しかし日本も機雷によって6隻しかない戦艦のうち初瀬と八島を失った。
このとき、ロシア側には「日本の戦艦は機雷で全滅、三笠も沈んだ」と伝わったらしい。ロシア人は日本をなめていた。
その後ロシア艦隊は司令官がいないまま黄海の海戦で先頭艦の操舵室に命中して操艦不能になり、ほかの船がそれに惑わされて敗北、旅順へ引き返した。
結局陸軍の児島大将が前線に出ると旅順は3日で落ち、旅順要塞から撃たれた大砲で港に残っていた艦隊も全滅した。
一方、ウラジオストックのロシア艦隊は日本の補給船や運搬船を沈めて大暴れをしたが、日本の第2艦隊に沈められた。
その後、陸軍は主力が奥保鞏、黒木為偵、秋山好古、西郷従道などで満州までいったが、ロシアのクロパトキン率いる大軍勢やコサック騎兵団に阻まれてそれ以上侵攻はできず。
一方、ロシアのモスクワ側北海にいたバルチック艦隊は旅順艦隊の苦戦を見かねて出撃するが、日本の同盟国・イギリスの妨害にあって1年以上もかかりスエズ運河を通らせてもらえなくて喜望峰を大回りし、やっとのことでシンガポールを経て日本海に入った。
その数、ゆうに60超
しかし、それを連合艦隊は捕捉し、対馬沖で迎え撃った。
「本日天気晴朗なれども波高し」
「敵艦隊見ゆとの報に接し連合艦隊直ちに出撃、敵を撃たんとす」
「皇国の興廃はこの一戦にあり各員一層奮励努力せよ」
名言はこの時生まれた。
T時戦法が功を奏し、日本艦隊はついにバルチック艦隊をほぼ全滅させた。
旗艦「三笠」の東郷平八郎、加藤友三郎、秋山真之などの苦労は大きかっただろうが、ここにロシア海軍をほぼ葬ったことで日本の勝利は決定的になったのである。
その後、1905年にアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領が
仲介に乗り出し、ポーツマス条約で両国は和解した。
そして、小村寿太郎外相は賠償金こそ得られなかったものの
1.ロシアは、日本が韓国において軍事上、経済上に卓越した利益を有することを承認し、日本が韓国に指導、保護および監理の措置をとることを妨げない。
2.両国は満州から同時に撤兵し、満州を清国に還付する。
3.ロシアは清国の同意を得て遼東半島南部の租借権、長春~旅順間の鉄道と沿線の炭坑を日本に譲渡する。
4.ロシアは日本に樺太の北緯50度以南を割譲し、沿海州漁業権を許与する。
この条件を引き出し、正式に戦勝国となった。
アジアの一小国が北の大熊を倒したことは、ロシアに虐げられてきた小国や、帝国主義に苦しめられてきた数々の植民地に希望と夢を与えたのであった。
しかし、日本もここから帝国主義への道を突き進む。
いわば、日露戦争までが「成長するための戦争」それ以降は「欲望による戦争」というのではないだろうか。
秋山真之 まとめ
松山を旅行して、坂の上の雲ミュージアムへ行きました。近代的な建物です。
司馬遼太郎の坂の上の雲を読んでから行くと、さらに楽しめますよ。
秋山兄弟の生誕の地へも行きました。
すっかり、秋山兄弟にはまっています。